日本では昔、こういう言葉遊びがあった。
「さよなら三角また来て四角 四角は豆腐 豆腐は白い 白いはウサギ ウサギははねる はねるはカエル カエルは緑 緑はキュウリ キュウリは長い 長いは煙突 煙突は黒い 黒いは悪魔 悪魔は恐い こわいはオバケ オバケは消える 消えるは電気 電気は光る 光はおやじのハゲあたま。」
この遊びは、子供たちによって独自の展開をしていく。
「白いは砂糖、砂糖は甘い、甘いはケーキ・・・・」のように。
連想ゲームだが、相関にもなっている。
計算や方程式のような決まったものではなく、独自の連想を張り巡らせていい。
「すべるは廊下、廊下は長い、長いは授業・・」で笑いが起きた。まさしく昭和だ。
しかし、先生は笑いも脱線も許してくれた。ノイズなんか気にしない。ただ、誰かが傷つく単語が出てきた時だけ叱った。
四角から既に枝分かれし、線が生える。豆腐からも枝分かれできる。白い、ウサギもそれぞれ枝が出て線が生えることができる。それがまるで神経を張り巡らせるように膨大になる。
自分で新しい単語の意味を発見し、自分で線を増やすことができちゃう。
これこそが自律の思考。
とても自由で幾つも線が増え、奥行きも出てくる。特にルールがあるわけでもなく、ノイズや間違いも笑いとして許容される。単語とその意味が分からない幼児も真似をする。「次に進みたい」という気持ちが立つ。さっきと今に差分という違いが出る。興味が湧き、皆楽しそうな顔をして、次々と言葉が生まれる。自分も「それをしたい」欲みたいなものが生まれる。ウサギは知ってる。ママがぬいぐるみを買ってくれた。動物園でウサギをみて印象に残った、ウサギという言葉の意味が分かった。それは記憶の深い地層の中に沈んでいく。
さよなら三角をやっていると、その単語が自然と記憶の地層から表面に現れ、地上のようなメモリのようなグローバル・フィールド(広大な原野)から沢山の手が出て、地層の表面に現れる。
誰かと居る時は、声に出したくなる。
自分一人の時は頭の中だけでぐるぐる考える。
それは出力するまでもなく、声に出すまでもなく、頭の中で続く。
お母さんが「ご飯できたよー!」
さっきまでの単語は地層の中に沈んでいく。
思考は言葉に出さなくても生まれては沈んでいく。
豆の挽く音→コーヒーをおとす音と香。朝の光。湯気。少し眠い身体。誰かが起きてくる気配。安心。少し忙しい感じ。今日が始まる感じ。
ママが台所に立って何かを切ってる音。
場面が出来て、感情が揺さぶられて、身体の感覚がさえてくる。
生活の線。
習慣という沢山の経験が積むと
コーヒーの臭い→ママが起きてる
というように記憶は点を飛ばすことができるようになる。
記憶の地層が浅くなり、表面に顔を出している感じ。
論理的じゃない。
でも、そんなの普通。
それが慣れてくるとママからコーヒー豆という
バックプロパゲーションみたいな誤差逆伝播アルゴリズムが無くても出来ちゃう。
しかも飛ばして。
経験地層の上で相関想起が連鎖する現象も起きちゃう。
これ等は3人称評価、報酬、ラベル寄せ、最適化で制御はしていない。
ポイントあげませんよ!
「さよなら」と「三角」に相関はありませんよ。何言ってるんですか!
「豆腐は一般的に四角ですが、立体としての直方体(四角形)です。上から見た平面の形としては長方形または正方形になります。製造型により・・・」
渡邉君、やってちょうだい!
はい分かりました・・・では、
「さよなら三角また来て四角 四角は豆腐じゃなくて、直方体だけど型によっては・・・」
先生:「ルービック・キューブがありますよね?なぜ出てこない?」
先生:「ティッシュペーパーの箱がなぜ思いつかないんですか?式として暗記しなさい」
皆:ナベ、だっさぁ、、、
これって思考そのものをボトルネックにさせちゃってないかな。
身動きできない。
きっとそのうち、その決まりに沿う思考になり、その決まりに喜ばれる為に言葉を発声させ、その決まりの中に完全に収まった思考(コピー)が増えてきちゃうんだろうな。ボトルネックの中で、お互い訂正し合い、決まった報酬に満足するのかな。
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