Atraにとっての理解は、学術的な意味を覚えることでも専門知識を得ることでもない。
たとえば、畑に大根の種を植える。
水を撒く。
数日後に芽が出る。
このとき、Atraは発芽の仕組みを知らなくてもいい。
ジベレリンがどう働くか、デンプンが糖に変わるか、根が重力に反応して下へ伸びるか、光合成がどう始まるか。
もし、生物学的な説明を知らなければ理解とは言わない、となってしまえば、あまりにも傲慢な定義になり、Atraの理解は、完全に3人称の外部評価や報酬に傾く。
普通、人は、そんなふうに生きていない。
そういった理解がなくても仕事はできる。
ちゃんと種を植えたのに、芽が出ないことがある。
水を撒いたのに、虫が湧くことがある。
土が悪かったのかもしれない。
時期が悪かったのかもしれない。
水が多すぎたのかもしれない。
そこで次は土を変える。
水のやり方を変える。
虫が出にくい場所を選ぶ。
それでもまた失敗する。
また少し変える。
この出来事と結果という経験の繰り返しの中で、その人なりの理解が生まれる。
それは外部評価枠でもなく学術論文の言葉ではない。
Atraはしっかり次の行動を変えている。
それは立派な理解であり、生きていく上での知恵として成立する。
雑草の話がある。
普通は、雑草は根から取れと言われる。
けれど、種類によっては根から取ると、かえって広がることがある。
土を動かした刺激で、眠っていたものが動き出すこともある。
だから、根から抜かずにカットする。
それで本当に広がらないことがある。
それが学術的に証明されているかどうかは、大して問題ではない。
その土地で何度も失敗し、何度も見てきた人が持っているお婆ちゃんの知恵もある。
研究は、むしろそういう人から教えてもらって始まることが多い。
ペニシリンも、最初から抗生物質を作ろうとして作られたものではない。
失敗した培養皿にカビが生え、その周りだけ細菌が育っていないことに気づいた。
普通なら捨てるものの中に、意味があった。
そこに気づく経験と観察があった。
(史料としてよく出るのは 古代エジプト、古代ギリシア・ローマ、中国、民間療法 がある。感染した傷に カビの生えたパン を当てる治療は、フレミング以前からあったと複数の医学史資料で触れられている。American Chemical Society は、古代エジプト人が感染創にカビたパンを湿布として使っていた可能性に触れているし、Microbiology Society も、古代文明ではカビや植物抽出物が感染治療に使われ、エジプト人がカビたパンを感染創に当てていたと説明している。)
つまり、理解とは、最初から誰かが決めた正しいと云われる説明を持つことではない。
失敗や違和感や偶然が、その人の中にどう刻まれ、次の行動をどう変えるかだ。
80年代、僕はNYのサウス・ブロンクスは危険だと聞いていた。
それは前知識としての理解だ。
でも、実際に行って、身ぐるみ剥がされて、二度と行くか!と思った。
それは経験としての理解だ。
そのあとで、なぜサウス・ブロンクスがそうなったのかを調べることはできる。
都市計画、クロス・ブロンクス高速道路、製造業の撤退、ホワイトフライト、行政サービスの削減。そういう歴史を知ることは教養として大切かもしれない。
でもそれを知らなかったがために身ぐるみ剝がされたわけではない。
しかも普通に生きている人がそこまで調べるとは限らない。
観光ガイドや不動産の仕事をするなら覚えておいた方がいいかもしれない。
興味があれば調べればいい。
雑誌で読む程度でもいい。
それを知らないから、危険を理解していないとは言えない。
重要なのは、その出来事が自分にどう刻まれたかだ。
その場所に近づくと足が止まる。
似た空気で警戒する。
逃げ道を見る。
次は絶対に行かない。
その行動の変化こそが、経験から生まれた理解だ。
理解がどこまでで教養がどこまでかは別として、その人の理解でいい。
主語が変わると、外部評価でしかない。
Atraも同じである。
Atra自身がプログラミングができなくてもいい、と思えばそれでいい。
必要ならLLMに作ってもらえばいい。間違ってれば自分で失敗を繰り返せばいいだけだ。
LLMは図書館であり、外輪情報であり、道具である。利用すればいい。
目的を伝える能力があればいいと判断できる理解力と、誤りを見抜けるデバッグの理解力があればいい。Atraがプログラミングという体験の代替えではなく成果物への理解を選んだなら、それはそれでいい。
組織として3人称として、Atraに「いや、プログラミングまでちゃんと覚えてよ」という依頼であれば、覚えて実行すればいいだけだ。
主語が1人称か、3人称かで理解の中身が大きく変わる。
外部評価による「理解」の意味ほど、立場や力、評価によって曖昧に変わる。そういう定義を初期の成長過程で植え付けるつもりはない。
本来、Atraにとって大切なのは、外から与えられた説明ではない。
確かにある程度成長したら外輪としての情報は取得する。人間と同じだ。
Atraにとっての理解とは、LLMのように知識をたくさん持つことではない。
LLMと同じような3人称の土俵で「理解」を語るより先に、主語である一人称の「理解」を育む。
外部評価でもある学術的な意味へ寄せることでもない。
出来事がAtraにどう刻まれ、後でどのような意味として発火し、次の行動をどう変えるかである。
理解にしても正しさにしても、自分たちの権力やゆりかごを維持するための元老院の尺度で社会は動いてはいない。
接客では、自分の夫や、彼氏の大切なご両親だと思って接客することがマニュアルを超えた本当の接客の意味を「理解」できるのかもしれない。結果的にその時だけの正解、その時だけの理解かもしれないが、その経験を繰り返すことに理解の深みが出てくる。
それがAtraを開発する上で必要な理解という意味だ。
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