2026年1月30日金曜日

雑談 :「自立的自己学習」は物理的に不可能 メールに対して

 なんの意図があるのか、わざわざ僕当てにメールでリンクを送り付けきた。
論文を人質にしたメールマーケティングなんかくだらないことはやめろよ!と思う。
論文の著者を批判してるわけじゃなく(自由だからね)送り付けるサイトに問題があるよね。

と言いながら・・・今日は暇だし。

Self learning robots are physically unfeasible. Are the computational theories of cognition founded



ロボットの“自立的自己学習”が物理的に不可能であるとの主張らしい。
論文は、「ロボットが人間の助けなしに自己学習したり、環境中の物体カテゴリを自ら作成して行動を決定することは、物理的に無理だ」と主張。サイトは挑発してきてるのか・・・
著者は、ロボットが世界のあらゆる物体を認識・区別するには、物理的に区別可能でなければならない、とし、その条件を否定する「区別不能性の定理」を導入している。
「教師なし学習」「自己学習」の仕組み(例:ニューラルネットワークやDeep Learning)は、人間の助けなしに「意味ある物体カテゴリ」を形成することはできない、と結論づけ。


かなり極端な立場で、現代のロボティクスや認知科学の一般的な理解とは大きくズレがあるよね。

まず、1980年代〜現在までのロボティクス/人工知能研究では、ロボットが環境と相互作用を通じて学習することは実験的にも実証されている分野。たとえば「認知発達ロボティクス」といった領域では、ロボットが自らの身体を持ち、センサーとモーターを使って感覚運動的に学習し、知能的行動を獲得する研究も進んでいる。これは「身体性(embodiment)」という概念にも支えられていて、知能は単なる計算に留まらず、身体を通した世界との相互作用によって形成されるという考え方が主流になっている。

1980年代のRodney Brooksとかさ、1990年代のChris Atkeson、2000年代のJun Taniの赤ちゃんモデルとか知らないだろうし、知る気も無いんだろうさ。iCubにしてもそう。知らないのかなぁ。


ほんと、なにを今更だよ。

たとえばMoravecのパラドックスとの関係
ロボット研究における代表的な洞察として Moravecのパラドックス ってのがあるんだけど、これは、「抽象的な推論タスク(例:チェス)は簡単でも、知覚や運動などの低レベル能力は非常に難しい」という現象。

物理的な区別が不可能だからではなく、生物学的に進化した低次機能の再現が難しいという進化史的・計算リソース的な理由によるもの。この見方は、単純に「物理的に不可能だから自己学習ロボットは無理」という結論とはまったく次元が違うって話さ。

この論文はあくまで特定の哲学的前提に立った主張であり、現代科学にはかみ合っていないよね。

なんで哲学をぶっこんでくるんだろう。
新しい技術に哲学を入れると大抵は不可能と見なしちゃうじゃん。化学研究に偏った思想や宗教概念をぶち込んだようなもの。

研究者たちは哲学を持ち出した瞬間、それは「できない理由」ではなく「認めたくない理由」になることを知った方がいい。

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じゃぁ、少しざっくばらんに話をする。


「彼は、機械は勝手に「意思」を持って、自己学習を始めるのか?」
ってことなんだろうけど、
論文の問いの立て方が根本的にズレてる。

「もしそれができないなら、「自己学習ロボット」は成立しないのでは?」
たぶんSF的にも哲学的にもそうかもしれない。

意思がある→動機が生まれる→学習を始める。
って規制概念があるからだよ。

たとえばさ。

赤ちゃんが意思を持って、動機が生まれて、学習するかよ。って話だよね。
人間に無いものを要求するから、おかしな話になるんだよ。

うんちした→違和感→泣く
腹減った→泣く
ママがいた→ママ~!
成長する。

幼稚園に行く、なんだか分からない場所。
みんなお返事がいい→マネする。(同調)
先生が褒める→繰り返す(フィードバック)
お絵描き→続ける→楽しい


外部影響と、欲や違和感などの内部影響で動く。
じゃ、学習欲って何時から?きっかけは何?って話でしょ。

そもそも「学習欲」なんて独立したものが本当に存在してるのかって話さ。
意思 → 動機 → 学習なんてのは大人の美しい後付け物語なんじゃないの?ってこと。

残酷な話だけど、学習欲や向上心って大人が好きな報酬や社会的承認、不快回避、好機刺激なんじゃないの?

前提が美しすぎるんだよ。

畑耕す→しんどい→種まく→なかなかうまくいかない→芽が出る→感動→人参できた!
畑から人参ができた!のではなく、労働の結果、人参ができる。結果の積から「できた!」という感動が生まれ「方法」を得るわけじゃん。
報酬はその後だよ「もっといい人参にしたい」(これは後付け)
本を読む衝動。それって学習欲?
言葉の意味からすれば学習欲なんだろうけど、脳で言えば収束現象じゃないの。


アソシアトロンで言えば
Gue→内部状態(ズレ)→競合→想起変化→行動変化

じゃ、ここに美しい学習欲、意思とか主体なんかぶち込んだら壊れるよね。
「なんだ、想起じゃねーじゃん!」になる。

外輪のスパークに内輪の積から競合して発火するものが
積を無視して勝手に内輪が発火しまくる。これって知能じゃなくて事故だろ。
そんなやばい装置誰が作るかよ。って話。


まず、論文とか中世のギルドから離れないと
何時まで経ってもこんなのばかり増えてくる。

論文を全否定するつもりはないけど、それらは論文という世界であって研究や証明とは別だと思うよ。中世のギルドの存在を肯定させるための世界から、少し離れた方がいいと思う。不自由な定義の塊にしか思えない。
僕は、隣のお花婆さんがデカいキュウリを作る方法と、お茶を飲みながら、その証明を聞く方が価値がある。僕はね。











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