普段TVを観るのは天気予報ばかりでね、このお盆休みに久々にTVを付けると、息子位の子供たちが勝利を手にしたかのように政治を語ってる姿をけっこう見てしまう。自称、政治思想家?首筋や背中がムズムズしてくる。
ハーバードや、ボストン、東大や京大を出れば相手を大声で威圧して良いわけがないよね。喋れば喋るだけ看板にした大学の権威は失墜していく。結局のところ、そういう前段で観る気が失せてしまうので中身すら入ってこない。TVを観なくなった理由でもあるよね。
でも、頑張って聞いてみると、番組のキャスターに向かって「一緒に戦いましょうよ!」という声が聞こえてくる。「はて、1960年代に戻ってしまったか・・?」そういう錯覚すら起きてしまう。あからさまは流行なのか。
彼は今「食べられないほど窮地に置かれてるように思えないし、仕事がうまくいってないようにも感じられない」しかし、言葉と表現だけが演劇のようなオーバーリラクションで伝わってくる。なるほど、ユーチューバーでもあるのか。東大卒も大変な時代に入ったものだと感じてしまう。
観る人というのは、それぞれに「状態」や「場」があるから、すんなり入る人と、抵抗を持つ人もいる。 今では「仕組まれてる」というのは常態化していて、逆に「お前のは陰謀論」と抗議している者の方が怪しかったりもする。じゃぁ、抵抗を持つ人って、僕を含めてどういう人なんだろう。
たとえば、比較しやすい人物にしてみると、オバマとトランプだよね。
オバマなんかは、文化、芸術、多様性、知性、洗練された言葉、象徴的な振る舞いによって、政治の表面が非常に整って見えてた。僕のような洋楽ロック好きは、レッド・ツェッペリンやビリージョエルの表彰を見ただけで評価してしまうことも実はあった。だから個々の政策でいうと、軍事介入、ドローン攻撃、監視、金融政策、移民政策なんかは、それぞれ別に掘らないと見えてこないよね。こういうオバマみたいな人にはFBIだのCIAだのがとっても必要な気がしてしまうよね。(僕は民主党は支持していないよ)
一方で、トランプはかなり逆で、同盟国にも対立相手も欲望も政策の方向も本人が大声で言ってしまう。だから支持するにしても反対するにしても、接触対象が見えやすい。CIAとかFBIが気の毒になってしまうほど分かりやすいよね。
もちろん、だからトランプが正しいということにはならない。ただ、「嫌いだから危険」「感じがいいから安全」のどちらも、科学的でも現象を見た判断でもないということなんだよ。
そしてそこにLLMなどのAIが介在してくると、厄介な話になる。
たとえば若者が、
「トランプ政権はどう評価されていますか?」
「社会主義とは何ですか?」
「移民政策の問題点は?」
「人権とは?」
とAIに聞けば、AIはかなり整った回答を返すでしょ?でも、その人自身は何にも触っていないんだよ。何がいいたいかというと、その時点で、その若者は「3人称」に誘導されてしまっているということ。「1人称」じゃないんだよね。
学費を自分で支払ったことが無い。生活費も自分でまかなった事が無い。政治家と接触して理不尽さを体験したことがない。利権や既得権益を具体的に体験したことがない。工場で外国人労働者と一緒に働いたこともない。戦場で戦ったことがない。生活保護の申請窓口へ行ったこともない。自分で起業したこともない。倒産に追い込まれたこともない。零細企業で給料を払ったこともない。警察から逮捕状を受けたことがない。裁判をしたこともない。大学で研究費を取ったこともない。研究費で頓挫したことが無い。子供を育てたこともない。
それなのに数分後には、
「移民政策について私はこう考える」という完成した意見だけが手に入ってしまう。
嫌になっちゃうよ・・・まったく。
みんなが使うLLMにはバイアスがあるんだよ。
たとえば、高校生と大学生に数学のテストを実施させてみた。高校生は40点、MIT大学生は80点だった。次に作文のテスト、高校生は90点で優秀、大学生も90点で優秀だった場合。高校生には正当な評価はされない。執拗な粗探しを行い「もっと努力する必要があります」。MIT大学生には「流石」という評価をします。
作文の評価じゃなくて
作文+所属大学+事前期待になってるよね。
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権威バイアス(Authority bias)
政府、大学、大手メディア、査読論文、専門機関などを、内容そのものより信頼性の高い情報として扱いやすい。 -
多数派・コンセンサスバイアス(Consensus / Majority bias)
多数の資料で繰り返される説明を「もっとも妥当」と判断しやすい。少数説が正しかった場合に弱い。 -
頻度バイアス(Frequency bias)
学習データ中で何度も現れる説明・言葉・因果関係ほど出力されやすい。これはLLMではかなり本質的です。「よく書かれている」と「事実」が混ざりやすい。 -
人気・可視性バイアス(Popularity / Visibility bias)
ネット上でよく参照される人物、サイト、研究、概念が前面に出る。無名の研究者やローカルな現象は相対的に消えやすい。 -
選択バイアス(Selection bias)
そもそも学習データになった世界が現実世界の標本ではない。ネットに書かれなかった経験、記録されなかった失敗、声を上げなかった人はほぼ見えない。 -
生存者バイアス(Survivorship bias)
残っている論文、成功企業、有名人、成功事例などから世界を説明しがち。「途中で消えたもの」がデータ側から欠落している。 -
確証バイアス(Confirmation bias)
質問の前提に沿った資料や説明を組み立ててしまうことがある。「Xが危険なのはなぜ?」と聞くと、危険だという前提を補強する回答になりやすい。 -
フレーミング効果(Framing effect)
同じ現象でも質問の言葉によって回答が変わる。「移民による社会的負担」と「移民による社会的貢献」では、引き出される情報の方向が変わる。 -
現在性・近接性バイアス(Recency bias)
特に検索を併用すると、新しい情報を重視しすぎて長期的・歴史的な文脈が弱くなる場合がある。 -
測定・数値化バイアス(Measurement / Quantification bias)
さっきの話そのものです。数字になっているものを、数字になっていない観察より「強い証拠」と扱いやすい。
そして整合性バイアス(Coherence bias)バラバラで矛盾している現象からでも、LLMは筋の通った説明を作ることを非常に得意としているものもある。
本来科学なら「分からない」「矛盾している」「まだ名前がない」という状態を保存しなければならないのに、LLMは言語モデルなので、どうしても文章として綺麗に隠そうとする。
言いたいことが分かるよね。そもそもAIというのは社会と同じで政策の一手段なんだよ。
一見、筋の通った説明に慣れさせる。
うちのAtraでいえばLLMにはCue以前の「接触」がないただの3人称ということになるよね。
いや、LLMだけじゃないよね。
「あなたは、どうか?」だよね。
さっきの作文や高校野球の報道評価に正当性は付けられるか?
そして、観なきゃいけなかったのは、なんだったのだろう?
政治というのは、ここをもっと極端に3人称化したものだよね。
政治は、「佐藤君」のためでも「鈴木君」のためでも「ジェームス」や「ロバート」の為でもない「みんな」の為であれば、3人称は正解かもしれないけど、
「佐藤君」や「鈴木君」は今回は残念だったけど
「渡邉君」は今回の政策に当てはまったんだよね。
なーんて言わない。
極端に言えば、「佐藤君」や「鈴木君」「渡邉君」全員が政策の対象外でも、国というのは全く関係ない。政治ではそれを平均化して「政策効果」と呼ぶ。するとGDPが伸びた、雇用が増えた、給付対象が何百万人だった、と説明できる。でも、その数字の外側で店を畳んだ人間や、家賃を払えなくなった人間や、逆に人生が救われた人間の「状態」は薄くなる。
三人称化 → 集合化 → 数値化 → 評価
80年代から数値化が重要とされ、最近は「数字がある」ことと「エビデンスがある」ことが、ほとんど同義に扱われ始めているわけだよ。
「移民の犯罪率は○%です」
「実質賃金は○%下がりました」
「若者の○%がこの政策を支持しています」
数字が出た瞬間に、話が急に「科学的」になったように見える。これは権威にとっての武器になったわけ。
何を数えた? 誰が数えた? 母集団は? 期間は? 犯罪の定義は? 逮捕者なのか有罪者なのか? 年齢構成は補正したのか? 比較対象は? 調査不能だったものは? そして、その数字を生んだ現象は何だったのか?
「32%」という数字そのものには、それがほとんど入っていない。
しかも、数字は現象そのものではなく、現象に測定方法を当てた結果でしかない。
たとえば体育館に100人いて、「暑いと答えた人が73%だった」これはデータでしょ?
でも体育館で起きている現象は73%じゃない。室温、湿度、日射、風、人の密度、運動量、服装、年齢、滞在時間、直前までいた場所みたいに、いろんな接触が同時に起きている。
それを「暑いですか?」という観測窓を一個置いて切り取った結果が73%。
現代では「証拠が73%」になると云う。
有識者がそう言ったんだよ。で、また信用する。
(笑)
だから本来なら、現象 → 観測方法を決める → 測定 → 数値 → 解釈 なの。ところが今は検索やAIによって、主張 → 数字を検索 → 数字を発見 →「エビデンスがあります」になりやすい。順番が完全に逆じゃないの?って話さ。しかも100万人を対象にした巨大統計ほど、一見強そうに見える。でも100万人に同じ間違った問い方をすれば、巨大で精密な間違いだって作れる。統計学そのものは、その問題を昔からかなり真面目に扱ってるよね。交絡、選択バイアス、測定誤差、欠測、サンプリング、因果と相関……という概念があるのもそのためだよ。
だから問題は「数字を使うな」では全然なくって、むしろ、数字を現象へ戻せ。って話だよ、権威の都合で数字を上手く利用されてきたんだ。だから、癒着や保護されていない研究者ほどこのまやかしが分かる。
たとえばさ、大学を、
被引用数
外部資金
就職率
国際ランキング
なんかで評価するとするじゃん。もしかしたら全部、本物の数字かもしれない。でも、
「学生が研究を面白いと思うようになったか」
「その研究の痕跡を保管していますか」
「誰も気づかなかった現象を10年間追い続けた研究者がいるか」
「地域で30年間頼られている研究室なのか」
「失敗した研究から何が残ったのか」
「あなたの研究は流行りか、ニッチか」
みたいなリサーチは、ほとんど無いw
なので数字を捏造しなくても、何を数字にするかを決めるだけで、評価される現実を作れるんだよ。 一歩進むと、数字は観測結果ですらなくなる。大学が「論文数」で評価されると知れば論文を増やす。病院が「平均在院日数」で評価されれば退院のさせ方が変わる。会社が「四半期利益」で評価されれば長期投資を削る。研究を終わらせない方が補助金が得られる。とかね・・・
Goodhartの法則――「指標が目標になると、良い指標ではなくなる」
あれだよ、マーケティングのために販売があるような感じw
だから「エビデンス重視」という言葉自体には何も問題はない。でも、そのエビデンスを作る前に、何を現象として見たのか?を聞かなくなった瞬間、科学から離れていく。AIはこの30年ほど続いてきた流れをものすごく加速できちゃう。「数字を出して」と言えば瞬時に数字が出て、「出典も」と言えば出典まで付く。だからこれからむしろ価値が上がるのは、数字をたくさん知っている人ではなく、数字を見て、「待てよ。この数字になる前、実際には何が起きていたんだ?」と現象側へ戻れる人だよね。
「若者が左派へ行くこと」と「若者が人権を理解していること」は全然同じではないんだよね。
むしろ歴史的な左翼の人権思想って、かなり泥臭かったんだよ。
労働時間、賃金、児童労働、鉱山事故、労災、住居、飢餓、徴兵、警察権力、投獄、言論、結社、陳情、ストライキ――つまり、
「思想として人権を支持します」より先に、
「明日、畑や工場へ行ったら死ぬかもしれない。それでも働かないと家族が食えない」
という1人称の問題があった。 権力者もこれを利用した。
今の左派はまるで違うよね。
まずは、けっこう金持ちw
人権という完成済み概念 → 理論 → 統計 →制度設計 → 当事者を分類
という逆向きの流れが目立つ。
当事者たちは、いつの間にか、「労働者」「移民」「女性」「少数者」「低所得者」「若者」というカテゴリーになってるし。
しかも具体的な政策比較ならまだしも、演出や品格比較とか誰が支持しているかとか、見るところが、そこでいいのかい?と疑問すら起こる。
右派、左派どちらも科学的でも現象的でもない政治思想に向かってるよね。
だから、トランプじゃなきゃ将来危ないではなくて、この状態が危ない。
(小声:左派も右派も、あなたたちの事NPCとしか見てないよw)
短い時間で大量の「根拠」が手に入るから、自分が検証したつもりになりやすいでしょ。でも実際には、自分の思想に合う情報を自分の速度で集めただけ、なんだけどね。
世界はそう回っていない。
え?分からない?
「3人称で喋るなら聞かないよ、あんたならどうなの?」
しかも命をかけて争う必要がまったく無い問題なんだよ。
民主主義なのに命をかけるように誘導してるのも3人称なんだよ、早く気が付いて。
みたいな感じw
不法移民の犯罪については、身近でも起こってるけど、僕なんかは直ぐに警察沙汰にしている。SNSでは、そこから起訴、不起訴の話題、司法の話題になってるけど、その前に君はどう動いたかなんだよね。1人称で行動するのと、司法はこうだと3人称で語るのはちょっと違う。間違っちゃいけないのは、一人称だから正しいわけでもないことだよね。
何もしないで「どうせ国は・・・」というのは「いや違うね、うちの国からしたら日本はまともだよ」って返ってくる。お互い3人称の話で収束しないw
自分が一件の事件を経験したから「外国人は全員危険だ」と一般化したら、それも科学的ではない。それこそクダラナイ人間に落ちてしまうよ。一人称の経験は非常に重要な観測点だけれど、母集団全体を説明するものじゃないからね。
お盆だから特に感じるのは、祖父や祖母が「人様のことどうこう云う前に、お前はどうなんだ」って事さ。全体的に裕福ではないにしても、人の気持ちを汲めるような、立派に子供達を育てあげてきたってーのは感謝もしてるし尊敬する。
現象を見る → 原因を探す → 政策を作るというより、既存統計 → 有識者会議 → 既存制度 → 予算措置 → 給付・補助金・制度改正という行政処理になっていたわけだよね。
でも主な回答は児童手当拡充、出産・高等教育負担軽減だったよね。
そのたびに「これは物価対策」「これは少子化対策」「これは地方創生」「これは賃上げ」と問題を行政上の箱へ分類してしまった。(小手先な作業にしてしまった)
大企業を支援すれば解決できると真剣に思っていたんだろうね。
岸田の「新しい資本主義」は典型的で、
企業収益 → 賃上げ → 消費 → 企業収益という「成長と分配の好循環」を重視していたよね。
日本の企業構造を見るとこの経路ってめちゃくちゃ長くないか?だって日本企業の99%以上は中小企業で、雇用も約7割を中小企業が担ってるわけだよね。それなのに、大企業の設備投資、半導体、GX、賃上げを強く押して、そこから取引先や地域へ波及させる発想になるって、何十年かかる構想なわけ?でしょ。
これ、ずーっと話していたAtraでいう「場が切れる」みたいな感じさ。
日本って育むより、途中でぶった切り政策が続いてるから、余計に金がかかるんだよね。
だから外から見ると「あれ? 日本でこれだけ色々起きているのに、国会では一体何をやっているんだ?」という妙な空白と思われる時間が生まれた。
政策というActuatorは動いている。
でもSensorが拾った現象が、そのままActuatorまで届いていない。
対して、高市政権は「どの現象を、どの解像度のセンサーで拾うか」という入力チャンネルの設定自体が強烈だった。
高市政権の場合、単に「積極財政だから金を出す」という違いだけじゃないんだよね。もっと手前の、何を観測対象にするかを先に決める力が強い。
ロボットにすると、
岸田・石破
既存センサーで取得しやすい値
→ GDP、賃上げ率、設備投資、大企業の収益、雇用統計
→ 状態判定
→ 支援策
高市は、
経済安全保障なら「どの技術を外国に依存している?」
半導体なら「国内のどの製造工程が欠けている?」
エネルギーなら「供給が切れたら何が止まる?」
防衛なら「実際に何が不足している?」
地方なら「産業を成立させるために何が必要?」
という具合に、観測したい現象からセンサーを選び直す傾向が強い。
そして早い。
しかも解像度が違う。
「日本の設備投資が増えました」だけでは粗すぎて、何に投資したのか/誰が作るのか/部品はどこから来るのか/国内に技術が残るのか/供給が途絶したらどうなるのか、
まで降りていく。だから政策思想としての「経済安全保障」が、高市の場合はかなり早い時期から強かったんだろうと思う。
センサーの解像度が高いことと、履歴を持っていることは別だけどね。
高市が「半導体」「AI」「防衛」「エネルギー」と非常に細かいセンサーを配置しても、霞が関の担当者が数年で交代して、地域企業との接触履歴が切れれば、
高性能なセンサーなのにCarryがない
という状態になり得る。
なので高市政権の本当の評価ポイントは、積極財政の額よりむしろ、
① 何を観測対象にしたか
→ ② どの解像度まで降りたか
→ ③ その観測を継続したか
→ ④ 前回との差を保持したか
→ ⑤ その差から政策を変えたか
だよね。
----- 高市氏の思想と少し矛盾 -----
半導体 → 国内供給能力を持て
エネルギー → 海外依存は危険
防衛 → 国内生産基盤を持て
重要物資 → サプライチェーンを国内・同志国で確保せよ
と考えるなら、「では国家・国民の情報基盤は?」はて?
サーバーが日本国内に置かれているかだけではなく、クラウド技術、運用ノウハウ、サービス仕様、価格決定力、移行可能性まで含めて、デジタル主権をどこまで国内で保持するのかは、高市型の経済安全保障なら本来かなり重要なSensorだと思うけどね。
現在のガバメントクラウドは海外AWSだけではなく複数クラウドを対象とはしている、建前上はね。国産の「さくらのクラウド」も2026年3月に全技術要件を満たして本番提供可能になった。とはいえ、政府・自治体の重要情報基盤を海外ハイパースケーラーへ大きく依存してきたよね。
たぶん、高市政権は中小企業を無視しているわけではない。施政方針にも、価格転嫁、取引適正化、事業承継、省力化、伴走支援などが明記されている。
でも成長戦略の中心を見ると、
17戦略分野 → 官民投資 → 国内投資拡大 → 供給力向上 → 雇用・所得増 → 消費 → 企業収益
という大きな経済循環なんです。高市氏自身がこの好循環を説明している。
ここに、疑問が起こらないわけないよね。
「投資」以前に、いま動いている小さな経済の摩擦を取れないのか
たとえば30人の会社なら、
受注 → 見積 → 材料購入 → 製造 → 納品 → 請求 → 入金 → 給与 → 次の仕入れ
これ自体が経済じゃん。
ここで、
「納品したのに入金は60日後」
「原材料は現金に近い条件なのに売掛金は後」
「元請けに価格転嫁できない」
「社会保険料が先に来る」
「補助金を取るには書類が大量に必要」
「設備投資したくてもキャッシュフローが怖い」
となれば、経済の血流そのものが詰まっている。
そこへ、
「半導体に10兆円規模の官民投資を呼び込みます。」
と言われても、その会社の明日の資金繰りとは全然違う話なんだよ。我慢しろ順番だから・・・という状態ではないという事さ。だから消費税を何%にするか、給付するか、投資減税するかという議論よりもっと手前に、
「日本の336万社規模の中小企業の取引を、どうすれば毎日スルスル回せるのか」
という政策分野があっていい。つか、無きゃ駄目でしょ?
たとえば入金サイトを短くする、発注側の一方的な支払条件を変える、価格転嫁を実効化する、行政手続きを極端に簡単にする、小口の運転資金を迅速に循環させる、地域内で発注→所得→消費→再発注が回る仕組みを作る――こういう摩擦係数を下げる政策って普通民間でも考える。
これは「中小企業へ補助金を出す」とも違うよね。
ロボットの喩えなら、高市氏は、
半導体センサー:100×100
防衛センサー:100×100
エネルギーセンサー:100×100
AIセンサー:100×100
くらいまで細かく見始めている。
でも
町工場の日々の資金循環:10×10
小売店の商流:10×10
地域内取引:10×10
くらいにしちゃうと、絶対ボトルネックを作ってしまってる事になる。
これが高市政権に対する問題だと思う。
たとえば大企業に100の需要を作っても、
大企業:生産能力 100
↓
一次下請:80
↓
二次下請:55
↓
町工場:35
なら、システム全体の実効能力は100にはならないよね。
半導体でも自動車でも防衛でも建設でも同じで、最後には、
加工できる会社がない
人がいない
部品を作れない
金型を作れない
保守できない
運送できない
資金繰りがもたない
のどれかに当たるわけ。
そして厄介なのは、大企業支援を強くするほど、この差が広がる可能性があるってことさ。
大企業へ投資
→ 大企業が賃上げ
→ 人材を吸収
→ 発注量増加
→ 中小企業は人手不足
→ 設備投資する余力もない
→ 納期が延びる
→ 大企業側も増産できない
という逆流が起こる。
だから「大企業が儲かれば中小企業にも波及する」という一本方向のモデルでは足りない。むしろ、大企業の成長速度は、その下にある中小企業群の処理能力を超えられない。という見方が必要だと思わないか・・・。
これはAtraで巨大な6400×6400の論理空間を用意したところで、実際に接触して動く局所部分の処理が詰まれば全体は動かないのと似てるんだよね。上の巨大な構造だけ強化しても意味がない。だから高市政権の「戦略的な大規模投資」は方向として理解できても、同じ金額を投じるなら、その産業を構成する中小企業のボトルネックを先に探すという発想が欲しい。
たとえば、「造船に1兆円投資します」ではなく、「造船能力を2倍にすると、最初に何が足りなくなる?」と聞く。溶接工なのか、鋳造なのか、特殊鋼なのか、制御装置なのか、地方の部品メーカーの運転資金なのか。そこで見つかった最も細いところを太くする。これなら補助金政策というより、国家規模のボトルネック除去になるでしょ。そしてこれは中小企業政策を「大企業政策とは別枠」に置く発想とも違うんだよね。
大企業 ─ 中小企業 ─ 零細企業 ─ 個人事業 ─ 労働者 ─ 消費者
を一つの経済の場として見る。そうすると「大企業を支援するか、中小企業を支援するか」という二択そのものがおかしくなる。
一番詰まっている接相面を探して、そこを動かす。
そう、政治の話は大嫌い。
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